中庸 考

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「中庸( ちゅうよう)」なんて言葉を久しぶりに見たのだけど、もしかして流行ってきたのでしょうか??

その大間違いっぷりに胃の痛くなるような記事もあって、触発されたので一筆(笑)

「中庸こそが健康だから、中庸であるように努めましょう。」
って、なんですか(;_;)

日の出入、春夏秋冬で中庸を語るなら、それは、手に入るものなのか?
シーソーという遊具に中庸を求めたら、
もはや、シーソーと呼ばれる遊具としての意味を成さないのではないか?
振り子はどう?
振り子の動作に中庸を求め、それを手に入れたら、振り子は生きているといえるのか?

呼気と吸気の間、転化の時。
吸気と呼気の間、転化の時。
これを中庸と呼んで維持しようと努めるのか?

上に投げたボールが中空に静止し落ちてくる。
地面に叩きつけたボールがバウンドして上昇に転じる。
この昇降陰陽に中庸の状態を、どう実現しようというのか。

躁と鬱を繰り返す躁鬱病。
これはこれでバランスがとれているのだから、
躁と鬱の間をとって求める健康を「中庸」とは決して呼ばない。

生殺陰陽を繰り返すことで命の営みが継続していると考えるなら、
中庸は、決して求めてはいけない所にある。

中庸を否定するものではなく、中庸は確かに存在するけれど、
維持継続させるべき目的として置いたら間違います。
中庸は、あらゆる場面で、常に、既にそこにあるのです。

そこにある中庸が、己の都合による視点と違う位置に現象としてある時に、陰陽のコントロールをする座標軸として用いる。
そんな理解で良くないですか?

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  2017年11月5日 23:33

 


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