よく聞く質問の形の中で、ご祈願等にいくら包むのかというものがある。
定価がないのでお気持ちでは決まりの形であって皆さんよくご存知であるが、神仏は金額を気にしないのでワンコインでというお馴染みのものであっては反対にお金の無駄になる。
浄財が云々というものを神社仏閣が白々しく利用してきたために胡散臭い理屈を唱える者もあるが、現実的なお話として単純に、
祈願世界の効果が及ぶ可能性のある「器」が、お布施の姿に現れる
ということだと理解すると良い。
どこにどれだけ降るかの功徳を受ける器を作る。
金額が云々というのは曲がった解釈で、その実としてシンプルに祈願者の重要度の占める割合の姿ということであろう。
つまり真にお金が無く食うに困るような人に賽銭を強いるようなことは必要なく、一方でブランド物にかける余裕のある人が例えばそれ以下の金額であればその分の重要度の割合が器ということになるだろう。
それは時に物でも良ければ、例えば子供がお小遣いを集めてお願いにくるのならばそれはもはや黄金の器のようでもあるということになる。
さて。ここで間違ってはいけないのは寺だ。
この器は【仏の功徳を受けるための器】である。寺の欲得ではなく仏法の護持や一切衆生の幸福に繋げるようなことに用いなければ、一転して衆生の悪業が術者に返ることくらいは想像がつかねばならない。
多くの寺が滅んできた歴史を、よくよく反省してもらいたいものだ。
