ある大宗派の寺で問うてみたのだが、仏への祈願が叶うも叶わぬもお気持ち次第だという。
心の作用と言うならまだしも、叶ったという感覚も気のせいだという。偉い坊さんが明確に言う法力の否定。これには驚いた。
ロンはそれはペテンであって詐欺行為だろうと投じてきた。
少なくとも祈願を行うレベルの者であれば、物理世界現実世界において必ず効果があるぞとの確信を、盲信としてのものではなく科学的な理解として得ていなければならない。まさか偽物だと思いながらやっていまいと思っていたが、現実は驚くべき姿だった。
これは詐欺というだけでなく極めて卑怯である。
大宗派であってもこの在り様であり驚愕するばかりであるが、気の持ちようだと逃避するところ既に仏は存在していない。
こんな者達が作り上げた寺がやるのだから、祈願の形が儀式を真似ただけのアトラクションとなり、御布施と書いただけのサービス料金をとるシステムになっているわけだ。こんなものは直ぐに腐っていく。
祈願の仕組みには三宝あるが原則で仏に法に僧である。この三宝が互いに影響しあいながら法力を成すわけで一つも欠くことは出来ないのだが、それ見たことかここに寺とは書いていないのである。良い寺も多くあるので勿論全てというわけではないが、あまりにも理解度が低く悪質な寺が多く蔓延っている。
このような状態では信仰そのものが低迷して当たり前だろう。
これからの時代、正しく仏法僧が生きる精舎は寺という名称を使わなくなるのではないだろうか。
御調は正統な仏法を護持する。
