祈願の世界はプラスαのものであり、現実だからこそに土台の業によっての成就の可否があることを説いてあるが、だからとはいえ僅かな効果しかないのかと言えばそうではない。
なぜかと言えばこのα域は、人間の努力精進では通常(天性があれば別だ)決して届かぬ部分の効果域であり、またそれは受ける側の状態によって何杯にも膨れ上がる可能性を持つものだからだ。外法はともかくとして、仏の功徳は人智を大きく超えるものである。
これを表したのがお加持という文字の分解解説であり、加は無限に広がる仏の大功徳、持は衆生(受ける側)の器だということ。
はっきりと申し上げておくが、御調に励む以外に一般の方々がこの域を手にすることは無い。
どんなに自分はと考えてみても無駄なことで、これはもうどうしようもない事実なのだ。
真の仏法に出逢うは百千万劫分(まさに天文学的数字。劫は気の遠くなる程の数の意)の一の確率だという。
自我の都合によって見過ごすはどういうことかということを考える。
